ベロニカ学習帳。

文京なんちゃらのなれの果て

#33

去る11月15日、父は他界しました。
11月の初めには自分の口から飲食ができなくなり、いよいよかと思ったのですが、そこから一旦は復活して、12日の往診では先生に「この調子で行けば年も越せるかも」とまで言われたそうで、なんとなく皆ひと安心したのにその直後から熱を出して、ほんの少し苦しんだけれど最後には眠るように父は逝きました。私は死に目には1時間ほど遅れて会えなかったのですが、まだ温かい父の死に顔がとても穏やかだったので、ああもうこれで父は病気と闘わなくて良くなったのだ、と心から安心できました。
写真は病気発覚直後、病院へと向かう父と母。

このときから約1年、私は今までたいして真面目に考えたこともなかった人間というものの身体について、沢山のことを学んできました。そういったことをこの日記で残していこうと思っていたけれど、書けないことも多かったし、結局まだまだわからないことの方がずっと多い。ただただ、人間がどれほど強いものなのか、それと同時にどれほど脆いものなのか、驚くことばかりの1年間でした。
さて。
六十という年齢で逝去し、現役時代はその立場としてはできうる限りの昇進を遂げた父のことを、多くの人が「さぞかし仕事一筋だったのでしょう。楽しいことは全部これからだったのに、残念ですね」と一様に悼むのですが、それはなんだか違う気がします。
家族の中では、季節季節のイベントをとても大切にして、日本人として風流なことを正しく愛でる気持ちを子供たちに教えてくれた父。組織の中では、仕事ばかりではなく大酒飲みとしても有名だった父。地域では、お祭り好きで盆踊りの常連としても皆に知られていた父。葬儀に参加してくださるのは仕事関連の人ばかりだろうと考えていた私たちの予想に反し、通夜が終わった後もお棺の側から離れず泣き続ける親友や、店があるのに通夜に駆けつけてくれた寿司屋の大将や、行きつけのスナックのママや、訃報を聞いてすぐに顔を見に来てくれたご近所さんや町内の多くの人たち。結局のところ、葬儀には私たちが想定していた倍もの人数が集まってくださいました。仕事一筋どころか、人生を十分に謳歌してきた父の姿がはっきりと見えるようです。
素晴しい戒名を与えてくださったお寺さんも、父はさっさと人生を終えることを初めから知っていたから、短い時間で徳を積むように生きてきた人なのではないかと仰っていました。それを生き急ぐと言う人もいるかもしれないけれど、まあ実に、ダラダラグズグズしているのが嫌いな父らしい一生ではないか。
そんな中、父の死に顔はどこか「してやったり」といった感じで、聞けば父はまだ健康だった頃に、酒の席での与太話で彼の息子(私の弟)に「若いうちに死んだほうが、沢山の人に見送って貰えるから良い」などと話していた様子。最後の1年は病気を理由に、普段はなかなか実家に帰らない子供たちを皆よく実家に帰らせて、できうる限りの親孝行をさせたしなあ。そりゃあ何ひとつ悔いがないかと言えばそんなことはないだろうけれど、人間なんぞ欲深いもので、どんなに思い通り生きたって悔いはあるもの。父の人生は、たぶん最後まで結構思い通りになり、大したものだと思います。
あとは、私の存在自体が父の遺品のひとつでもあるわけで、私はこの人生をますます楽しく生きていければ、それが何よりの父への恩返しになるんじゃないかな、なんて勝手に都合良く解釈して、自分の一生について考えてみたりするだけです。