ベロニカ学習帳。

文京なんちゃらのなれの果て

端的に言うと、今、死にゆく人をみている。日に日に死へと近づいているその人は、義母つまり夫の母だ。1年前から癌で闘病中だったが、治療の手だてがなくなり、今は緩和ケアの段階にある。
みていると言っても私は介護の手伝いにもならないくらい非力なので、切ない。思えば病気の発覚と私の妊娠の発覚がほぼ同時期だったため、妊婦だからPがいるからと見舞うことすらろくにできなかった。Pが3ヶ月になってからは月1回ほどこちらに来ているけれど、私には最優先事項としてPの世話があり、この役割は誰にも代われないことだから、結局たいした手伝いはできていない。
実父を癌で見送って、まだ2年経っていない。その記憶が新しいうちだからこそ助かる面もあるけれど、やはり「どうして私の周りばっかり立て続けに」と思わずにはいられない。ただ、父にはしてあげられなかった「孫を抱かせる」という最低限の親孝行には間に合って良かったのかな……とは思う。
なにしろ孫はすごいよ。義母は傷み止めのせいか病状なのか、もう意識が定かではないときのほうが多いのだけれど、調子の良い日にフッと意識がはっきりすることが時々ある。そのときにPが目の前にいると、Pの名をちゃんと呼び、思い通りに動かないはずの手指を動かし声をたててあやしてくれることさえある。まったく、孫というのはどれだけ可愛いものなんだろうね。P効果は義母だけでなく、家族みんなが辛気臭くなりがちな場面でも、Pがいるだけで希望があるように思えるから、赤ちゃんの存在感はすごい。大切な母を失おうとしている夫にとっても、Pの存在は心の支えになっている。生命を繋ぐってこういうことなのだ、と思う。
けれど、それにつけ思うのは、もっと早く産めたらどんなに良かったかということだ。そうすれば義母にも、もっと成長したPの姿を見せられた。父にも孫を抱かせてあげられた。Pだって、可愛がってくれるおじいちゃんとおばあちゃんがふたりずついるほうが楽しいだろう。最初からいないひとりのじいちゃんのことはもちろん、今は病床にあるけれどまだ確かに生きているばあちゃんの記憶も、たぶんPには残らないのだ。抱っこもしてもらったし、一緒に過ごした時間だって確かにあるのに。

思ったままをちまちま携帯で打っているので、文章がまとまらないやスミマセン。
たくさんの感情が自分の中を静かに静かに満たしていく。あふれている。愚痴もあるし、後悔や悲しみもある、ある種の楽観や割り切りもあるし、恐怖も不安もある。計算とかあざとさもあって、そんな自分に嫌悪感もある。全部書きたかったけど無理だ。
とにかく、私たちはこれからどうなっていくのかわからないけれど、どうころんでも家族や大切なひとたちがみんな幸せになるように、今後をどうやって生きようか今は真剣に考えている最中ってところ。