ベロニカ学習帳。

文京なんちゃらのなれの果て

義母は7日の夜に息を引き取った。出張先からなんとか駆けつけた夫も母親と最後に会えて良かった。そのほか義父や義母の姉弟たちに囲まれて、義母はとても穏やかに旅立った。
ただしその瞬間、私は別室で授乳中だった。それはPが珍しくグズグズ泣いていたからで、今にして思えば、パイを与えても何をしてもグズグズが治らなかったのは、もしかしたら彼は彼なりに赤子のふしぎなちからで祖母との別れを感じ取ったのかしら、なんて思う。
相手が義母だからではなく、むしろ自分の父のときにも全く同じことを感じたからこそためらわず書くけど、最後の何日かはやはり「神様、はやくこの人を楽にしてあげて」と祈ってしまうような状況だった。癌の最期は本当に見ているほうもつらい。義母とはもっとたくさん話さなきゃいけないことがあった。でも、わかった時にはもう手遅れだった。後悔は残るけれど、最期の1週間を一緒に過ごし、孫の顔を毎日見せて手を握らせてあげられたことは、正しかったと思う。ちゃんと挨拶はできた、できていたはずだ。
8日納棺、9日通夜、10日に火葬後お寺で葬式、その後、供養膳。セレモニーは一応つつがなく済んだ。義父母の出身地(仙台から車で1時間少々のところにある町)で執り行われたためか、私が知っているのとはまったく違う風習で(たとえば火葬が告別式より先とか、初めて見た)、ただでさえPを抱えて身動きがとりにくい中、何をしたらいいのやら戸惑ってばかりだったけれど。使えないヨメと思われたかな。まあ別にいいか。豪に入って豪に従うことはできても、豪を仕切ることは無理だ。言われなきゃ動けるわけないよ。
まあそれ以外にも正直、家が抱えている問題に直面したり、振り回されたり、今後について考えさせられたりと、精神的にも非常にヘヴィな日々だったので、悲しみに明け暮れている場合ではなかったふしもある。一番心配なのは義父。彼は家のこと、というか仕事以外のことを全面的に義母に任せてきた団塊周辺の典型的なお父さんな上、糖尿病で目がやられているので、今後が心配。心配すぎる。でも私たちの生活はあくまでも東京にあるのだ。離れないと生活能力も発展しなかろう、とどちらが親なんだかわからない心で、明後日には帰る。
そんなヘヴィな中でも、やはりPの存在が本当に癒やしになった。私たちにはもちろん、義母の葬儀に来てくださった皆様にも。Pのほうも、たくさんの大人に抱っこされて話しかけられていろんなものを見たからか、ここで過ごした2週間で目に見えて成長した。特に、義祖父(Pにとっては曾祖父)とは随分仲良くなったようで、私たちが東京に帰ったら義祖父もPも寂しかろうなあ。
父を亡くして、子を産み、義母を亡くして。命をつなぐってこういうことなんだと、単純だけど本当にそう思う。問題は山積みだけど、どうせ私も命の通過点のひとつにすぎないのだから気楽にいこうっと。