ベロニカ学習帳。

文京なんちゃらのなれの果て

誕生日と、自粛明けと。

45歳になった。
若いころは、40くらいまで生きれば人生もう十分なんじゃないかと思っていたので、自分が45歳になるなんて隔世の感である。

隔世の感といえば25歳の誕生日は友人とルームシェアをしていたこともあって、いろんな機動力があり、なんか店貸し切って誕生日パーティーなんてもんをやったんだよね。今思うとこれ完全にパリピやで。で今年は「あれから二十年だし今年もなんかやらないん?」とかいうことを言われたりもしたんだけど、もはやそんな情熱ないわぁー。つか、それ以前に自粛だわー!と思っていたら、誕生日当日が緊急事態宣言解除の日となりました。私のためかな?(違う)

緊急事態宣言が解除され、自粛事項が少しずつ減っていく今日この頃。

私はもともと力の抜けている(力が入らないともいう)タイプの人間だと思うけれど、そんな私が二児の母になって、プチ起業的な事をして、イベント立ち上げる的なこともして、PTA的なこともして、パートタイマー的なこともして、、、と力を抜いている暇もないというか、本当に自分を省みる時間もないままひたすら全速力で突っ走ってきたのがここ6年くらいの毎日だったので、この自粛期間というのは「今の私になって初めて訪れた休暇」みたいだった。

もちろん家事育児には休みはないし、オンラインショップは動き続けているし、パートもテレワークだし、そういう意味では休みといえるような休みではないんだけど、少なくとも自分を省みるくらいの時間ができた。

自分を省みると、全て投げ捨てたくなる衝動がすごい。やばい。

でも投げ捨てないのは、年の功なのか。これが、四捨五入すると50ということなのか。たとえ今抱えている面倒くさいものをうまいこと投げ捨てたとしても、自分はまた別の面倒くさいことを「面白そう」と拾い集めてはまとめて丸めてこねくり回して、もう自分が持てないくらいの巨大な何かになるまで育てていくんだろう。ということが、わかってしまった。だったら、今ここにあるこの重くて面倒くさいやつを、もっと育てても同じことだ。そういうことが、この年齢になってようやくわかったのである。

はーすごいね50年(まだ45歳です)。

そして、今はこんなことを書いているけれど、ある日突然「うわぁぁぁぁぁぁ」てなっていろんなものを投げ捨ててしまうかもしれない、そんな可能性も秘めていることは否定しないでおこう。人生どこで何があるか、マジわからん。