ベロニカ学習帳。

文京なんちゃらのなれの果て

プラナリア (文春文庫)/山本 文緒

断食前後、というか、行く電車と帰りの電車で読んだ。
小説を読んで感銘を受けるときはたいてい、作品の優劣とかなんとかよりも実はタイミングがとても重要で、どんなに良い作品でも今の自分の心には響かないな〜ということもあるし、しょーもない作品だと思っても人生に影響を及ぼしてしまったりすることもある。
ま、この作品は直木賞受賞作品なのだし、優劣という点でいえば優なのだろうけれど、たぶん普段の私が読んだら「響かないな〜」側の作品だったんじゃないか、と思う。だけど、たまたまこの時期に私は読んでしまった。そのことに、すごく意味があるような気がする。そう思いたい。
この作品集に収録されているすべての作品の主人公は、みんなとても鬱屈している、と思った。いや本当は鬱屈なんて言葉じゃ表せないくらい、その裏にはぐちゃぐちゃといろいろ面倒くさいことがあるのだけれど、この主人公たちは面倒くさいことを、本当は気付いているのに見ない振りして「鬱屈」というムードの中に全部を押し込んで、それでなんとか生きている。周囲からの、オマエそれじゃだめだろ、というサインはひっきりなしに続く。自分でもだめだろうなとは思っていても、動けない。そうして、すべての物語は、その鬱屈がちょっとだけ綻んだところで、終わる。その先、主人公がどうするのか、どうなるのかは、私たちにはわからないまま。
普段の私だったら、後味の悪さとか、腑に落ちなさとか、そういうものを感じてしまったところだろう。というのも、鬱屈ムードが綻んだところで、この主人公たちが押し寄せてくる現実という波を乗り切る力があるのかどうだか、希望が持てないから。そのくらい、みんなひどく弱っているんだもの。
けれど正直、自分が断食なんかに行こうと思った背景、そして行ってみて改めて見直した自分をとりまく現実、そして行った後にやってきたつるんと一皮むけた感じ。そういうのが、ちょうどこれらすべての作品とうまい具合にリンクしていたので、今の私にとってはすごく意味の大きな作品だった。「ああ、自分もそうだったんだ」と気がついたときには、もう「自分はそうじゃない」わけだ。