ベロニカ学習帳。

文京なんちゃらのなれの果て

てつがいなくなった

実家で飼っていた牡柴17歳のテツが、失踪した。いなくなってもう一ヶ月になるので、単なる脱走ではないという前提で書く。
母や弟によると、いなくなったのは1月3日の午後のことだけれど、1月1日あたりから様子がおかしかったらしい。やたら落ち着きがなく、家の敷地内のワケわからん場所に入り込んで出られなくなって大騒ぎしたり、「今思えば、死に場所を探しているようだった」とのこと。
もちろん必死で探したし、必要なところへの届出はすべてしたそうだけれど、今もまだ見つかっていない。近所で見かけた人もおらず(脱走するときは大抵目撃談がある)、本当にふらりといなくなってしまったらしい。

私が20歳の秋に、父と母が突然ブリーダーから買ってきた生まれてまもない柴犬は、乳もろくに飲めないほど気が弱くて、兄弟の中でも体が一回り小さかったらしい。「あまりに哀れで、ついこの子を選んでしまった」とは母の弁。ブリーダーさんにすら「他に元気で愛嬌のある子がたくさんいるのに、この子でいいんですか?」と確認されてしまったくらい、商品価値としてはかなり低かったのだろう。そんな子なので、心を通わせるまでは大変だったけれど、長い年月をかけて彼はいつしか立派な家族の一員になっていた。いつまでもビビりなのに変わりはなく、道を通りすぎる救急車に腰を抜かしたり、犬小屋をカエルに占領されて家で寝られなくなったりしたこともあったけれど。
私が20歳ならば下の弟は当時まだ中学生だったわけで、思春期反抗期自立期の子どもたちがすっかり大人に成長していくのを、テツはずっと見守っていた。私は大学卒業してすぐに実家を出たので、一緒に暮らしたのは実質2年と少しだったけれど、実家に帰るたびに彼が私のことを心配してくれていることはよくわかった。やがて私が結婚し、弟たちも結婚し、その間には父が亡くなったり色々な事件があった。私の実家の歴史を物語にしたら、いわば起承転結でいう転の時期を、彼はずっと見守っていたのだなと思う。17年間を、寄り添うように。
父が亡くなって実家が引っ越して、私にとってそこが親ではなく弟の家という存在になってから、テツは頑固ジジイのようになった。まるで父の遺志を継いで、自分がこの家を守るのだというように。やがて弟のところに娘が生まれ、私も息子を生み、子どもたちと一緒に遊ぶ機会が増えた。そのときだけは、テツは完全に好好爺だった。よその子ならば家の敷地内に入るだけでも激怒するのに、私たちの子に関しては耳や尻尾を引っ張られても怒らないのだから、大したものだった。
写真は、まだハイハイのころのPの頭突きを真摯に受け止めるテツの図

Pにとってもテツは、生まれて初めて心を通わせた犬だったろう。実際にテツのことが大好きで、実家に帰るたびにテツの散歩のためならどんな早起きもできたし、万が一連れて行ってもらえなかったりする日(雨なのでこっそり母だけで行ってしまうなど)は大泣きで抗議した。テツがいなくなったという話にも、どれだけその真意がわかっているのかわからないけれど、小さな胸を痛めている。ばーちゃんへの電話で「てつはどこにいったの?」と聞いたり、ある朝には「てつがこわいひとにつれてかれちゃうゆめみたの」と言ってみたり。
私たちはまだテツがいなくなった後の実家に帰っていないので、なんとなくその喪失感は希薄なのだけれど、だんだんテツのいない実家が当たり前になっていくのだろうか。Pは、大きくなったときうっすらでもテツのことを覚えているだろうか。
昨年の秋に、もう一人の弟のところにも赤ちゃんが生まれ、ようやく孫が出揃ったので、すべてを見届けたという気持ちになったのかもしれないなと思う(私の腹の子が生まれるのも見届けて欲しかったのだが)。テツは年齢のわりには見た目にも動きなども若々しかったけれど、その頃からの衰えは著しかった。おしっこのとき片脚が上がらなくなったり、散歩で歩ける距離がぐんと減ったり。
だいたい13〜14歳になれば老犬とみなされる柴犬なのだから、17歳といったら高齢も高齢なのだ。はっきりいって私だってもう3年以上前から「今朝、テツが息を引き取った」という連絡をいつもらってもおかしくはないと、一応の覚悟はもって過ごしていた。
ところが、テツはお別れすらさせてくれず、ただただ姿を消してしまったのだった。だから、なんだかやりきれない。
挨拶くらいしたかったなあ。我が家の17年間をずっと見守ってくれたあの顔に。正月に帰省しなかったことが本当に悔やまれるけれど、でも挨拶もせず消えていったのはテツの意志なのだから仕方ない。
母や弟たちの言うように死に場所を探していたのなら、どうか心の落ち着くいい場所で眠れるように。そうでなく奇跡的にまだどこかで生きているなら、痛いとか苦しいとかつらい思いをせず、優しい誰かに保護されているように。遠くでひそかに願うことしかできないけれど、心から、そう願います。ありがとう、テツ。