ベロニカ学習帳。

文京なんちゃらのなれの果て

2015の色々その3、同窓会やったことの2

同窓会幹事録の続き。
同窓会案内の往復はがきを出したものの、半分近くは宛先不明で返ってきてしまった。まあ25年振りですもの、こんなもんよね。想定内想定内、と、思っていた。
ところがはがきを送って数日後、早速アクションを起こしてきた同級生がいた。ジャイアン(仮)である。彼は、はがきを見てすぐに私をFacebookで探して友達申請をしてきたのだった。
ジャイアン(仮)とは中学時代にはほとんど絡みがなかったが、小学校高学年で同じクラスだった。縦にも横にも態度もbigな、まさにジャイアン的存在だった。Facebookで友達申請をされて、名前を見た瞬間に「あー、あいつか」と思い出したのだが、彼のプロフ写真が全く別人だったので驚愕した。すっきりスリム体型になり、もともと背は高いというのもあり、すっかりイケメンさんである。しかも、それなりの金も地位も手に入れてヤングなエグゼクティブ風っていう。だからFacebookも使いこなしまくっているわけよ。あのジャイアンが…!とおののきながら、私は友達承認をした。
実は以前、T氏が私にいわれて一応ってかんじでFacebookグループを作るだけ作って放置していたものがあった。せっかくなので、そのグループにジャイアンを招待してみたところ、ジャイアンは早速、何人かの舎弟……じゃなくて、同級生をそのグループに引き込んでくれたのであった。
そこで連れてこられたうちの一人がラーメン氏である。私とはやはり中学時代の絡みはほぼナシ、さらに小学校も違ったのでたぶん喋ったこともない気がするが、サッカー部で、どちらかというとかわいい系キャラだった印象の男子である。(今はラーメン屋をやっているとのことなのでラーメン氏とする)
このラーメン氏が、Facebookグループにて「LINEにも同窓会グループを作ったらどうか」と発言。あーねLINEねー私好きじゃないんだよねー幼稚園の役員関係で仕方なくやってるけどねー、と内心思いながら、まあとりあえずグループ作るだけならタダだしと思って作って、手始めに私が今も交流を持つ4人の友人と、ラーメン氏と、ジャイアンを招待したのだった。
それからが、驚きの展開…!
皆だいたい私のように何人かの友人とは今でも繋がりを持っているわけで、それぞれが数人ずつ友人をグループに招待、さらに呼ばれた人がまた誰かを招待…なんてやってるうちに、なんと2日ほどで同級生の1/3以上はLINEで繋がってしまったのである。まるでねずみ講
さらに、そうして集まった人の中には、やたら顔の広い人とか、連絡つかない人に連絡を試みてくれる人とかが稀にいるもんで、往復はがきでは連絡が付かなかった人のうち、半分以上の連絡先がわかってしまったのだった。
やがて、出欠のハガキが届き始めるわけだが…。夜な夜なLINEに誰かしら顔を出して交流を温めている状態で(特にラーメン氏がラーメンを作る傍らいつもLINEに参加しやすい雰囲気を作り出してくれてるおかげで)、なんと、5割近い出席率になりそうだった。
同窓会で出席率5割って、結構すごいこと。で、焦ったのは私たちである。だって普通は同窓会なんて出席率3〜4割くらいのもんでしょ。そういう想定で動いてるわけよ。つまり、最初に設定した会場、完全にキャパオーバーである。
また、想定外に規模が大きくなりすぎたため、私とM子とA子の3人で仕切るのは無理と判断。T氏とジャイアンとラーメン氏に幹事の協力をお願いしたところ、快諾いただき(ジャイアンは少しめんどくさそうな反応だったが、なんだかんだいって仕切りは好きなのであろう…)同窓会1ヶ月ほど前にして新体制で仕切り直しというカオス。
個人的なことだが、実は時を同じくして、会社を辞めることになったり、国立小の一次抽選があったり、七五三予約会やら、イベント出展やら、色々ありすぎてほんと訳わからなかったよ。
というところで、また続く。

2015の色々その3、同窓会やったことの1

私の2015を語る上で欠かせないであろう事件、それが中学の同窓会である。同窓会に行った話じゃなくて、同窓会を企画主催したという話。
中学時代から続いている友人4人以外とは全く交流がない、たとえば街で偶然会ってもたぶん声なんかかけない、向こうから声かけてきたらなんか喋るけど、連絡先聞いたりは絶対しない、と思う閉じている私である。てか実家も引っ越した今、そうそう偶然出会うこともないし。そんな境遇の私が、なぜ同窓会幹事なんかやることになったのか。
同窓会やりたいよね〜という話は、私たちの間では以前からあった。でも、「誰かやってくれないかなー」という気持ちでいた。同じ中学から同じ高校に進んだ男子のT氏は毎年学級委員をやっていたような子で、高校の同窓会で定期的(つっても5年に1度だよ)に会うので、そのたびに「中学の同窓会やってよ〜」と声をかけていたのだが、いっこうに立ち上がらねえ、という状態だった。
で、今年の4月。数少ない中学時代の友人M子とA子が我が家に集まった。
例によって同窓会やりたいよねーという話になり、T氏にやってほしいって頼んでるんだけどねーと言うと、「T氏よりあんたがやるほうが人が来るよ。私たちも一緒に幹事やるから!」と、まあ丸め込まれる形で、なんかいつの間にか幹事をやることになっていたのであった。
そこから11月の開催まで7ヶ月。一見、準備期間はたっぷりあるように見えるが、二人の子供を育てながら二足の草鞋の仕事をしてて、そのうち一足の草鞋がゴタゴタしていて、しかも子供の小学校受験を考えたりとかしている私にとって、時間はほとんど無いも同然だった。私もM子もA子も千葉をでているというところがまたネックで、会場の下見ひとつもスケジュール合わせてみんなで千葉まで行って…とやるので、本当に大変だ。
つーかね。私は故郷としては千葉を愛しているけど、千葉で一生暮らすとか全く想像も出来なかったのですが。幹事特権であとからわかったことだけど、同級生の半分は千葉市内に根を張って暮らしてたし、その残りのうちさらに半分も千葉県内に在住だったのよ。残った4分の1を、都内と関東近県、そして関東以外で三等分する感じ。幹事をやっていた私たち、アウェーすぎた。
本当、近場の人が仕切ってくれたら良かったのにと思うけど、それだとたぶん私が行方不明扱いで呼ばれなかった可能性も高く、結局、地元にいない人間のほうが実は同窓会をやりたいという気持ちが強くなるものなのかもしれぬ。
そんなんで、やっとこ日時と会場を決めたのは、幹事発足から4ヶ月も経った8月だった。
さて、日時と会場が決まったら、今度は同級生をそこに呼ぶわけであるが、現在の連絡先などまるでわからないので、とりあえず卒業アルバムの住所(どうでもよい情報だが、まだ千葉が政令指定都市になる前だった)に、往復はがきで同窓会の案内を送るという古典的な手段を試みることにした。
すごく長くなりそうなんで、続く。

2015の色々その2、子どもたちのこと

夏前にいろいろ悩んでいたけれど、Pは普通に学区の小学校へ、QはPが通っている幼稚園へ、それぞれ入ることになりました。一校だけ受けると言っていた某国立大学附属小学校は一次抽選で見事にハズレで(周囲で受けた子たちもみんなハズレだった…)、それはそれで別に「神様がこっちに導いてるんだな」と思える程度の楽観主義。行き先が決まらないからモヤモヤしていたわけで、決まったらもうすっきりぽんよ。
で、Pが5歳、Qはまだ2歳だけで3歳のお祝いで、七五三も済ませました。まあそれもあれやこれやドタバタする中で準備勧めるの本当大変だったけど(ちょうど会社辞めた騒動の直後だったもので)。しかしまあ、こういったライフイベントをこなすというのは変な言い方だけどゲーム感覚でたのしいな。
Pは年長さんらしくしっかりしてきたなと思う反面、難しい感じにもなってきた。彼の中で善悪の判断が揺らぐときがあるというか、担任の先生いわく「Pくんはとても賢い子だし、今までも言うことを聞けるとてもいい子だったので、ここへ来て我を出したい気持ちとのバランスがとれなくなっているのではないか」という状態。別に今までだってそんなに「言うことを聞けるいい子」だったとは思わないけれど、割と空気を読みすぎて自分の言いたいことを言えない子ではあったと思うので、このままでは小学校以降、人間関係に苦労しそうだなと心配している。だから、ここでぜひとも殻をやぶってほしいなと思うんだけど、私としてはちょっと手を焼いている。難しいー。
そしてQはちょっとおバカで困っている。ちゃんと成長しているのはわかっているんだけど、兄妹を比べるのは良くないんだけど、Pの時はトイレを覚えるとか、ひらがなを読むとか、スプーンを上手に使う、みたいな幼稚園前に覚えておいてほしいことはほとんど自分で勝手に覚えてくれたので、どう教えたらいいのかわからない。ひらがなはともかく、入園まであと4ヶ月をきってまだ全然おむつが外れそうにない、未だ手づかみ食べをしている娘をどうしたら良いものか(と言いながら、でも子供は勝手に習得するものと思っているので焦っているわけでもなかったり…)。
まあPにせよQにせよ、人生のステージがひとつ上がるときというのは、何かと大変なものなのだろう。それが重なってしまったので、母親としてもしばらく大変な時期が続くのかなーとぼんやり考えている。

2015の色々その1、会社をやめたこと

手足口病以来なにも書いてなかった…! 夏〜秋、怒涛の日々でしたなあ。今も師走で普通に考えればまあ忙しいんだけど、ちょっと楽になったと思うぐらいだわ。どうかしてる。そして揺り戻しがあって今ちょっと内省モードなのでいろいろ記録してみる。
10月いっぱいで会社を辞めた。
これはタイミングや話の流れ的にいうと不測の事態であり、辞めたいとずっと思っていたことを考えると結果オーライではあるのだが、ある意味、今年の私にとってはひとつの山だったな、と思う。
なんで辞めることになったかを簡単に言うなら、「子育てに無理のない範囲で、それでもやりがいのある仕事をしたい」という私と、「もっと会社を大きくしたい、子育てをしながらでも女性が活躍できる理想的な会社を作りたい」という社長の、それぞれの思惑がずっとギリギリのところでせめぎあってやってきたのだが、とうとうバランスが崩れたのである。仕事内容は好きだったし、待遇にもそれなりに満足していたからここまで続いていただけで、そうでなければとっくに辞めていたくらいはしんどかった。
まあでもバランスが一気に崩れたのは、私に非があるのだと思う。
私はずっと社長のやりかたが気に入らなかった。たとえば社長のみがクライアントと打ち合わせをしたものの議事録もない、何の資料もない状態でいくつもの仕事を丸投げされてきたこと。何の材料もなく「簡単なものでいいからちょっと○○作って」と言われていろんな資料や企画書やデザインを作ってきたけど、簡単なものをつくるのと簡単にできるのはまったく違うということ。それを何もいわずこなしてきてしまった自分が悪かった。バランスは一気に崩すのではなく、少しずつ少しずつ、変えていかなければいけなかったのだろう。でも、できなかったねー
夏くらいに業務拡大のため1人スタッフを雇った。社長はその人にも同じように、最初から丸投げ方式で仕事をさせようとしたが、彼女は「無理です」と言った。研修なんてものをほとんどしない状態の、現役からしばらく離れて長いこと主婦をしてきた50代半ばの新人さんである。傍から見たらそりゃそうなるのは当たり前だと思ったけれど、社長はそれを許さず、「うちは小さい会社だから、あらゆることを自分で考えてこなせる人じゃないと仕事できないよ?」と、彼女を即刻クビにした。うーん、そうか。社長は人を使ったり、育てたりすることが絶望的にできない人なのだなと思った。(ちなみに、私が彼女の指導係をしますからと申し出たのだが、結局は常に私も彼女も丸投げ仕事を山ほど抱えている状態でトレーニングの時間を全くとれなかった。)
丸投げで任せてもらった仕事をこなす私って有能!と思っていたわけではなく、私としてはずっと「社長のお手伝いをしている」という感覚で仕事をしていたのだ。名前だけは株式会社だけどこれって会社組織じゃないな、つかこの会社はこのまま事業をいくら広げても絶対に大きくならないなと常に感じていた。
しかし夏以降ますます仕事の丸投げ状態が続き、その内容もいよいよ迷走としか思えないものばかりになり(社長の中には一貫性があるのかもしれないが、そういうのを人に理解させるのも苦手なのだろう)、さすがにこれはと思う丸投げ案件があり、ちょっと棘のあることを言った。ただ、ちょっと間違えた。元々社長がメンヘラ気質というのもあって(私がそういうレッテルを貼っているのではなく、医師にそう診断されたことを自分で言っていた)「社長のやり方はおかしい」と社長に向かってそのまま言う勇気がなかったのは仕方ないとしても、変にオブラートに包んだのが失敗だった。予想外の部分が、どうやら社長の怒りスイッチを押してしまった。(いや、でもこれ書いてて思ったけど、じゃあ「社長のやりかた」について物申せば、それはそれでまた違うスイッチを押すよね?)
私の言葉は、夏に即刻クビにされたスタッフのように「自分には無理」という意図で伝わってしまったらしく。そんなことを言うならあなたとはやっていけない、と言われ。のみならず、敵認定するともう完全にその人のすべてが気に入らなくなるタイプだったようで、前から言いたかったんだけどあなたのここもそこも気に障る、みたいなことをたくさん言われ。うーん、となって、数日ちょっと頭を冷やしてみたけど、やっぱりそこまで言われたら「じゃあ辞めます」ってなるわな。
でも私だって一応社会人ですから「年末を目処に退職を考えたい。引継ぎはしっかりしていくので、新しいスタッフさんを雇って欲しい」と打診したところ、「来週から来なくて良いです。他の皆さんには体調を崩したと説明します」と言われ。あ、そうなんだ。まあ私としても気まずくなってまであと数ヶ月働くのは厳しいし、それで済むならラッキーだ。ああーそういえばこの会社、何人ものスタッフが雇われては挨拶もなく自然消滅していったけど、みんな実はこうやって秘密裏に辞めさせられてたのか…
んでもやはり大人ですから、一応きちんと挨拶するつもりで翌週一度お伺いしますって言ったんだけど、当日、社長は逃げたよ。緊急のトラブルで取引先に行かなきゃならなくなったって連絡きたけど、その日には出勤しないはずのスタッフさんにわざわざ事務所の留守番までさせておく周到さからは、緊急性を感じられませんでした。なんかもう、気が抜けちゃったね。変な辞め方になってしまったけれど、前の会社を辞めたときほどの禍根も残さなかったのは、ある意味良かったのだろうか。3年も働いて、なんだったんだろうとは思うんだけど。
ちなみに、仕事を丸投げしてもそこそここなせるスタッフが突然抜けたら仕事が回らなくなって困ったのでしょうか、騒動から10日くらいして、「これからは外注スタッフとして今までの仕事をやってくれないか」と社長から打診がきましたが、「新しい仕事が決まってしまって(嘘)」と丁重にお断りしました。
とりあえず書いてみて分かったけど、「私も悪かったかもしれない」とずっと思っていたけれど、たぶん思ったほど悪くない気がする。お互いいろいろギリギリな中でやっていたものが、ギリギリだからこそちょっとバランス崩れただけで無理になっちゃったというだけの話。
そんでも、アロマの世界、経営のしかた、社長とほぼ二人でやってきたおかげで、良くも悪くも本当にいろんなことを学ばせてもらった3年間だったのは確かで、社長にはすごく感謝はしています。この経験があるから、次のステップに迷わず進める私がいます。
そんなわけで、今まで副業的にやってきたハーブティー屋さん、これから本業として取り掛かりますよ!

子供からもらって、手足口病になった。とにかく!口のなかが!口内炎だらけ!
つらいけど、大人が手足口病にかかると重症化しがちなのは有名な話である。手足口病になった大人たちのブログなどをググって読むと、39℃の高熱とか歩けないほど痛い足の発疹とか爪がはがれたとか、聞くだけで背筋がきゅんとなるような症状に悩まされた人が多いようだけれど、私は熱も微熱程度だし発疹は手足合わせてもたぶん10個ないくらいで少なめ。見た目が悲惨なことはないし、ふらふらになることもない。軽く済んでいるほうだと思う。
だけど、口内炎は外から見えないというだけなのよね。口をあけるのがつらい。水を飲むのもつらい。喋るのもままならない。でも子供たちは夏休みで、先に手足口病は治ってすごく元気で、おかあさんおかあさんと常に話しかけてくるし、何かままならなければすぐ泣くし、いや泣きたいのはこっちですよっていう。
でなんか急に思い出したことがあったので。私は小学校2年くらいのとき、やはり同じように口の中が口内炎だらけになり食事もままならなくなったときがあった。そのとき、親は流動食なら食べられるだろうと思ったのだろう、その期間中ずっと私にコーンポタージュスープみたいなものを用意して、私はそれだけを飲んで生きていたのだけれど、結構しみるから毎日泣きながら飲んでいた。あれね、今思うと、熱くてしょっぱいものは口内炎の敵だよ!もし子供がこんど口内炎だらけになるような病気になったら、私はとうふを食べさせます。醤油をかけない絹豆腐を。

小学校と幼稚園のはなし

そんなこと言ってる間に子供たちはすくすく成長し、来年はPが小学校に、Qが幼稚園(3保)に入るよーそろそろ準備しなきゃだよー。
上の子が行ってる幼稚園に、当然下の子も行くのだろうと思われがちだが、どうせ通園期間はかぶらないし、同じ園にこだわる必要がないので迷っている。
Qが同じ園に行くとしたらメリットは、バスがマンション前まで来てくれて朝は夫が見送りをしてくれること(Pの入園当初、Qが新生児だったことから夫が見送りするようになったが、今ではそれが父と子の貴重な時間になっているようで、たぶんこのまま続く)、他の幼稚園よりは保育時間が長いし延長保育なども充実している、ある程度勝手知ったる場所である、Pの同級生の弟妹が結構同じ学年にいる(初めから知り合いがたくさんいる気安さ)、Pの同級生の女の子がQに制服とかいろいろ譲ってくれると言ってくれてる、などなどなど。あとは、卒園後もPが幼稚園に遊びに行く機会があるので、Pにとっては楽しいかも。
デメリットは、園のことをある程度分かっていることを理由に役員などをやらされがち(実例を見ている)、あとこれは元々分かっていたことだが、遠い(バス通園だから普段はいいけど、公共交通機関でいくとなると大変)。それと、入園前には一切知らされていなかった集金があまりにも多すぎる(他の園に通っているママたちの話を聞いた上で、やはり多すぎると思う)。まあこれはデメリットというか不満だな。
前向きな言い方をすれば、他の幼稚園の実態も知ってみたいという好奇心もあるかな。ただ、一人幼稚園に行かせてわかったことは、こうしてさんざん悩んで幼稚園を選んでも、どこへ行っても、何かしら不満な点はあるし、良いところもあるということだ。そうなるともう、考えるのを放棄するしかないじゃない…
Pがどこの小学校にいくのかというのも重要で、それによって行動範囲が大幅に変わってくる。公立は2校のうちいずれかを選べるのだが、まあどっちもそれぞれ個性は違うのだが長所短所いろいろ見えている。通学路の安全さとかも、すごい考える。
それとはまた別に、Pには一校だけ小学校受験をさせようと考えている。といっても、どうしても地域の公立小には行かせたくないという気持ちはないし、中学も高校も大学もその都度受験したほうが本気で勉強する機会に恵まれるから良いと思っている派。ただ、子供でも通えるくらいの距離にすごく雰囲気いいなあと思う校風の国立小学校があり、知れば知るほどPにそこの校風が合っているように思えるというのが理由。まあ、抽選が二回もあるので、はっきりいって受験というより宝くじのようなものだ。
だけど。浅はかな私たちは、万が一、抽選で当たった場合のことを考える。ので、一応対策として5月からゆるゆると行動観察の教室に行くようになった(抽選で外れても、小学校の入学準備になるのでいいかな、と)。教室は割と近所で、幼稚園とはいわゆる違うエリアになるのだが、フタを開けてみたら10人ほどのクラスの半分ほどが同じ幼稚園の子だったりして、驚愕。もともとPが行っている幼稚園はお勉強園とかお受験園と言われているけど、入ってみたら金がやたらかかるだけで普通じゃんと思っていたのだが、やっている人は年少からちゃんとお教室に通っているのだなあ(もうなんか他人事)。
もちろんそういう家の子たちはウチみたいに宝くじみたいなもの〜とか言って受験するわけではなく、当然私立志望で、本気で小学校受験に向き合っている皆さんなので、イマイチ必死さが足りない私は気後れせざるを得ないのだが、そこまでして入れたい学校ってあるかな?と思ったりして、やっぱり支払うお金の大きさや小学生にとっての電車通学の大変さなどを考えると、いくら良い学校でもわざわざ小学校から入れなくてもな〜というのが本音であり、結局、小学校も幼稚園もいまだ迷っているだけで何も決まっていない、というだけの話でした。さてどうなることか。

30代のわたしへ

おいおいアメブロ生活に毒されて変なタイトルを書いているぞ!! まあいいけど、、、はてダはあくまでも素の自分でなんか書く場所として残している、というような住み分けになってきて、そうなるとここが一番愛しい場所だったりする。こんなにも更新をしないでおいて何を言う。
もうすぐ30代が終わるので、この10年をちょっと振り返りたいと思って振り返る。
30歳⇒自主制作本作っていろんなとこ売り歩いたりしたけどそれがアダになり最悪の出来事とともに札幌を離れたなー
31歳⇒すっげいろいろあって鬱っぽくなったり大腸ポリープとったり自暴自棄になってあれしたりこれしたりしたなー
32歳⇒おそらく人生でも3本指には入るであろうでかい買い物(マンション)したと思ったら父の病気が発覚したなー
33歳⇒父を見送って心の整理がついたらなぜか強烈な健康オタクになってて誕生日迎える前に断食道場いったなー
34歳⇒そうだアロマ勉強しようと思った矢先に妊娠して香りがだめになって勉強頓挫したけど無事出産したなー
35歳⇒Pと一緒に地域に土着する生活をしてたなー今思うと貴重な時間だったなーそんな中で震災あったなー
36歳⇒やっぱり勉強しようと思って職業訓練行って仕事就いたけど酷い職場で結局クビになって復讐を考えたなー
37歳⇒今の会社に拾われて復讐じゃなくていずれ起業しようと思った矢先に妊娠して出産したなー
38歳⇒赤ちゃん返りした年少児と新生児とを両腕に抱えて、今思うとひたすら寝てばかりの一年だったなー
39歳⇒仕事復帰してタゲられてると気づいたり胃壊したりキツイ中なぜか起業のほうに引っ張られてたなー
なんだか色々あった気がするけど、まあ厄年やら大殺界やらとにかく駆け抜けたつーか生き抜いたという印象。たぶん死んでもおかしくなかった時期が2度ほどある。20代の頃は30すぎたら人生落ち着くのかなと思ってたから、色んなことがあるたびに大変戸惑ったけれど、まあ周りを見ても30代って親が年老いたり子が育ち盛りだったり仕事も第一線になるしで、順風満帆にいってても色々ある年頃なんだろうなと今は思う(いわんや順風満帆とは言えない我々をや)。
で、今。30代が終わったら40代は落ち着くかなーとは、もはや思わない私がいる。おお、もしやこの心境こそ不惑なのではないのか。もはやいろいろあるのが当然の人生なんだよいちいち惑わねーよ、みたいな(たぶん違う)。
なんにせよ、昨年の秋口くらいから色々な動きがすごくて、以前にもこんなことがあったなと思い返すと、あれは25歳になった年だった。その時は分からなかったけれど、あれが転機だったんだと今では思うし、そしてまたこれが転機なのだと分かる。波が来るなら、乗る以外に選択肢はないのである。
40歳からは、小難しいこと考えないでハジケようと思ってます。まだあと3日あるけど、お疲れ30代の私。40代もがんばろうぜ。