ベロニカ学習帳。

文京なんちゃらのなれの果て

いやーマジかー

まだ全然終わってない感じがするのですが、熊本の地震で被災された皆様にお見舞い申し上げます。
あの一発目の震度7がきたまさにその日の夕方、私の携帯に一本の電話が入りました。見ると幼稚園の番号からの着信だ。入園したばかりの娘が早速何かやらかしたか、ぐらいの気持ちで出たら、電話の向こうの声はまさかの園長先生。
その瞬間、すべてを悟った。折しも保護者会の前々日。というか、以前から噂は聞いていたのだ。
「Qちゃんのクラス役員の代表をお願いしたいんですけど〜」
二人目三人目を入園させた、いわゆる園生活ベテランの母にそういう依頼があることは、さすがに疎い私でも3年間見てきたから知っていた。でも私かよ。確かにPを3年間通わせたけど、1年目はQが新生児で園行事も最低限しか行ってない、2年目は復職して忙しくて園行事どころではない、3年目は役員はやったけれどやはり仕事の関係で役員の仕事半分くらいしかやってない、この私かよ。マジかー
と思っていたら、それだけではなかった。
「さらに、○○会(いわゆるPTA)の幹部もやってほしいんですけど〜」
は?
である。全力で。
「Pくんの担任だったM先生も太鼓判を押してますし、前年度に幹部だったOさんからも信頼できる方ですと聞いてますよ〜」
えっ
ごめんちょっと理解できないです。
いやいやいやいやいやいやそれはさすがに無理じゃね?
幼稚園の役員ぐらいで何を大騒ぎしとるんかと思うかもしれませんが、この園は慣例で、クラス代表を務める人間は3年間変わらない。つまり卒園まで役員をやり続けなければならないという決まりがありまして。Pの謝恩会のとき、3年間つとめたクラス代表さんたちがいろんな格好に仮装してはステージに出て踊っていて本当にすごかったんだけどあれは自分にはできないわーと思ったのがまだ記憶に新しい。はっきり言うとかなり体育会系ノリだと私は見ている。
正直、この園にさせるかどうかも結構直前まで迷っていた私。結局同じ園に入れることにしたものの、上の子を卒園させた以上、役員代表になる可能性があるのは知っていたので、ヒラの役員でさえ今年はやらないでおこうと思っていた(今年やらなければ、3年間代表は免れる)。だのに、それをすっ飛ばして役員のクラス代表、のみならず組織幹部って。
即答で断ろうとしたのだが、「園長である私がこうして直々にお願いしているのに断るんですか?(意訳)」と言われ。いやちょっと待て冷静になろうよ。「とりあえず仕事のこともあるし家族にも相談したいので即答でお請けすることはできません、保留させてください」と電話を切ったあと、去年役員を一緒にやった卒園生ママさんたちに「どうしたらいい?」って聞いたら、「園長から直接そう言われて断った人っていままで見たことないよ」「つーか保留にしただけでもかなりの勇者」「まあ、がんばれ」「応援してる」「君ならできる!」と励ましの言葉しかもらえなかった。夫に相談したら「誰にでもそんなお声がかかるわけじゃないんだし、やってみたらいいじゃん」と超軽く言われ。年始に引いたおみくじを見直してみたら「今年は地盤作りのチャンス、好機を逃してはならぬ」みたいなことが書いてあり。何の地盤だよ。
実のところ一番の懸念は、断ってこれから卒園までの長い3年間ずっと針のムシロになるのもやだし(私はともかく娘が何か変な立場になったら嫌だ)、ああもうわかったよやるよやればいいんだろ!と、結局のところやけくそで引き受けることにしたわけである。
せっかく会社をやめてハーブティー売りに専念し、最近なかなか良い感じになってきたところなのになー。たぶん私は常に二足のワラジを履いて歩いていく運命にあるに違いない。まあでも確かに地盤というか、地元(小学校だと町内に限定されてしまうが、娘の幼稚園は結構広いところから園児を集めている)に今まで以上に知り合いができるのは悪いことではないかもしれない。きっと自分にとってのメリットは大きいはずと信じ、とにかく顔を売ろうと思います、はい。
しかし、未だに「なんで私が…」という気持ちは消えない。3年後もそう思ってそうだ。
あ、そうなんです、Pは無事1年生に、Qは幼稚園生になりました。(ついでかよ)

小学校受験のはなし

3月も半ばになって、今年初の更新です。いつの間にかPは6歳になり、Qも今週3歳になり、入学と入園というイベントが重なる春です。(同窓会の話の続きが書きたかったのだけれど、ありていに言うと同級生の訃報だったのだけれど、まだちょっと自分の中で整理できないので、それはもう少ししたら。)
入学入園が重なるちょっとした節目なので、小学校受験のことを書こうと思いました。
Pは一次抽選で早々に外れてしまったし、その一校以外はハナから受けさせる気もなかったんですが、同じマンションの子で赤ちゃんのときからたまに一緒に遊んでいて、三年間一緒に同じ幼稚園へ通ったAちゃんが茗荷谷三校を受けて、いわゆる最難関といわれる小学校に合格しました!他人事だけど嬉しい。
Pの行っている幼稚園は受験園とも言われていて(実際受ける人は半分くらいかな)、そこそこ教育熱心な親御さんが多く、子供たちもそれなりに「できる子」が多い。そんな中、合格したAちゃんは突出して出来る子というわけではなかったので、園ママからは「意外だよね〜」と軽く悪口っぽさが見え隠れする噂話も聞くけれど、私は「Aちゃん頑張ってたからね〜」と、ちょっとうざいフォローをしてしまう。だって本当頑張ってたもの。
周りを見ていて感じたのは、小受で勝つのに一番大事なのは結局「絶対に受かる」という気持ちなんだなとよく分かった。Aちゃんのお母さんは、地元公立小に行かせたくないという気持ちがとても強かった。うちはもちろん学区的に同じ公立小に行くことになるわけだけど、正直いろいろな要素を考えるとこの学校もいいなという気持ちがあった。なんだかんだいっても私は、公立中学から都立高校に行ってほしいなとか思ってたりする(経済的に楽なのもあるけど、自分自身がそのコースを歩んで大変良かったと思うから)(でも夫は中高一貫の私立に行ってたので、考え方が異なるかも)。結局その本気度が、対策における差として現れる。想いの強さは、抽選というクジ運さえも動かす、気がするよ。
これから受験を考える人たちの参考になりそうでならない話でした。

2015の色々その3、同窓会やったことの4

そんなこんなでバタバタと、皆に会場変更の連絡をして、同窓会の準備を進めているうちに、あっという間に(つーか忙しすぎてあんま覚えてない)迎えた当日。
私は司会進行をやっていたので、ぶっちゃけ同級生の皆さんとそんなに会話する時間がなかったわけだが(二次会以降で多少交流できたけど)、歓談の時間にわざわざお礼を言いに来てくれる人が結構たくさんいたのは感激した。 あと、当日ドタキャンは普通にあると想定して予算を組んだけど、まさかのドタキャン0%で全員参加だったのには感激を通り越して驚愕したわ。
色っぽい話はないけど、小2のとき淡い初恋を覚えた相手は、たくさん喋った訳じゃないけど開催をとても感謝してくれて、後日も丁寧にメールで「本当に行ってよかった」と送ってくれた。ラブレターごっことか流行ったとき半分本気なキモいラブレター送ってごめん。いいひとだなあと思った。
中学時代に好きで好きで仕方なかった人は、会場にきてすぐに「ゴブサタしてます」と声をかけてくれたんだけど、三上博史似→武藤敬司似に進化してて、いや顔を見た瞬間その人であることはわかったけど「えー」って感じの反応を正直に顔にも言葉にも出してしまい、大変失礼いたしました。
後はまあ、広く浅くいろんな人と挨拶程度の会話を交わして思ったんだけど、同窓会を企画したくせに身も蓋もないことを言うけど私そんなに同級生に興味なかったことに気がついた()。
これ、あんまり楽しめなかったせいかな?とか、好きだった人が予想外の変貌を遂げていたからか?とか中学時代って難しい時期なのかも?(なぜか多くの人が小学校時代のあだ名で呼び合ってたし)とか色々原因を考えたけど、イマイチしっくりこない。
んで、なんか同窓会終わってから不安定な気持ちで過ごしていたのだが、昨日、残務として担任にもう一度会いに行って話をして、分かったわ。私、どうやら先生に会いたかったみたい。
受験直前に家が火事になり、先生には大変ご迷惑をかけたというか、おそらく他の生徒とはちょっと違うであろう、感謝というか申し訳なさというか複雑な感情を抱えてきた。にもかかわらず、私は25年も先生に音沙汰ないまま生きてきてしまい、それをずっと気にしていたのかもしれない。で、今更一人で会いに行くのが怖かったから、みんなを巻き込んだのだった。
そうまでしたくせに、チキンな私は同窓会当日も、先生には挨拶だけするのが精一杯で、会話をするのを避けてしまった阿呆である。なんか怖かったんだよー。
後日、本当はわざわざ会わなくても済む用事を、わざわざ会う言い訳を作って、先生に会いに行こうと思ったのも、自分でもなんでだか分かっていなかった。しかも、なぜ今になって。
ただ一つ言えるのは、先生と話をして完全にストンと落ちたということ。
先生は私たちのことをとてもよく憶えていたし、とてもよく理解していた。同窓会で私を見るなり「おまえさんは変わらんなあ」と先生は言ったけれど、それは見た目ではなく生きざまのことを言っていたことを知った。一目で今の私を見抜いてしまったのだ。完敗だ。
不惑を迎えて、私は今までの自分から脱皮したいと思っていた。でも今までの自分を冷静に把握できていなかった。先生が指摘した私の私らしさというのが、最大の長所でもあるけれど弱点でもあることは明らかで、私はそこんとこと戦わなきゃいけない。同窓会まとめのはずが、なせかその答えを先生に聞きに行ったという話にまとまってしまったよ。
何だかわからないけど、2015年にやらなきゃいけない禊だったのかも、と思うことにする。
これで同窓会の話は終わりなんだけど、もう少しだけつづく。

2015の色々その3、同窓会やったことの3

具体的にいうと多くても70人くらいかな、というか50人集まればいいほうかも…と想定していた同窓会、いざ出欠の返事を締め切ったら、100人近い出席表明だった。1次会として設定していた会場は、多くても80人くらいまでと言われていた(一応、人数が多くなってキャンセルする可能性はあるかも、まあないと思うけどねーという感じで押さえていたのだが)。で、開催一ヶ月前になって会場を変更しなければならなくなった…!
例によって、千葉にいない私とM子とA子が幹事なので…正直、いい会場とかわからなーい。しかも私がどうしても千葉まで出向く時間がなく、下見は二人に頼んでもう破れかぶれでキャパだけは満足(それ以外はイマイチ…)な店を仮押さえしておきつつ、幹事6人になってからの初打ち合わせを迎えた。
打ち合わせの連絡をしても、当日まで返事が来ないジャイアン…。当日になって「顔は出します」と曖昧な返事だけ来たけど、集合時間になっても来ない。仕方なく5人で話を進めてると…30分くらいして、「場所わかんなかったわ」と現れたジャイアンであった。
ジャイアンは「まあとりあえず皆もっと飲めよー」と人に飲ませ、M子に異様に絡み、私たちが押さえた会場を「あー、あそこ最悪」と切り捨て、さすがのジャイアニズムである。しかし、「出席何人?100人キャパね。良い店あるよ」「今からでもいけるっしょ、オーナー知り合いだし」「ちなみに二次会に良い店もあるから連絡してみるわ」と、その場で先方(店長でなくオーナー)に電話して、速攻場所を押さえてくれたのであった。しかも「○日に会場の下見に行くからおまえら必ず来いよ」って、仕切りもジャイアン風。そして「俺、これからまだ仕事だよ。仮装して○○のイベントに出なきゃ行けないんだ(ちょーどハロウィンシーズンだった)」と言って帰っていった。嵐のような男であったが、会場の件ではほんと彼がいなかったらしょーもない同窓会になってたに違いない。
ちなみにジャイアンは「誰か今日の内容を議事録にまとめてFacebookにあげとけよ」との命令も残していったのだが、東大卒で大手企業に勤めるエリート会社員のT氏が、とりとめもない私たちの打ち合わせ内容を要点だけ完璧にうまく拾い上げてすばらしくまとめた議事録を常に打ち合わせ当日に(どんなに酔って帰っても必ずその日のうちに)うpしてくれて、とても助かったのであった。おまえリアル出来杉くんかよ。
そんなこんなで、同窓会当日に向けて私たちは急ピッチで動き出したのであった。まだまだつづく。

2015の色々その3、同窓会やったことの2

同窓会幹事録の続き。
同窓会案内の往復はがきを出したものの、半分近くは宛先不明で返ってきてしまった。まあ25年振りですもの、こんなもんよね。想定内想定内、と、思っていた。
ところがはがきを送って数日後、早速アクションを起こしてきた同級生がいた。ジャイアン(仮)である。彼は、はがきを見てすぐに私をFacebookで探して友達申請をしてきたのだった。
ジャイアン(仮)とは中学時代にはほとんど絡みがなかったが、小学校高学年で同じクラスだった。縦にも横にも態度もbigな、まさにジャイアン的存在だった。Facebookで友達申請をされて、名前を見た瞬間に「あー、あいつか」と思い出したのだが、彼のプロフ写真が全く別人だったので驚愕した。すっきりスリム体型になり、もともと背は高いというのもあり、すっかりイケメンさんである。しかも、それなりの金も地位も手に入れてヤングなエグゼクティブ風っていう。だからFacebookも使いこなしまくっているわけよ。あのジャイアンが…!とおののきながら、私は友達承認をした。
実は以前、T氏が私にいわれて一応ってかんじでFacebookグループを作るだけ作って放置していたものがあった。せっかくなので、そのグループにジャイアンを招待してみたところ、ジャイアンは早速、何人かの舎弟……じゃなくて、同級生をそのグループに引き込んでくれたのであった。
そこで連れてこられたうちの一人がラーメン氏である。私とはやはり中学時代の絡みはほぼナシ、さらに小学校も違ったのでたぶん喋ったこともない気がするが、サッカー部で、どちらかというとかわいい系キャラだった印象の男子である。(今はラーメン屋をやっているとのことなのでラーメン氏とする)
このラーメン氏が、Facebookグループにて「LINEにも同窓会グループを作ったらどうか」と発言。あーねLINEねー私好きじゃないんだよねー幼稚園の役員関係で仕方なくやってるけどねー、と内心思いながら、まあとりあえずグループ作るだけならタダだしと思って作って、手始めに私が今も交流を持つ4人の友人と、ラーメン氏と、ジャイアンを招待したのだった。
それからが、驚きの展開…!
皆だいたい私のように何人かの友人とは今でも繋がりを持っているわけで、それぞれが数人ずつ友人をグループに招待、さらに呼ばれた人がまた誰かを招待…なんてやってるうちに、なんと2日ほどで同級生の1/3以上はLINEで繋がってしまったのである。まるでねずみ講
さらに、そうして集まった人の中には、やたら顔の広い人とか、連絡つかない人に連絡を試みてくれる人とかが稀にいるもんで、往復はがきでは連絡が付かなかった人のうち、半分以上の連絡先がわかってしまったのだった。
やがて、出欠のハガキが届き始めるわけだが…。夜な夜なLINEに誰かしら顔を出して交流を温めている状態で(特にラーメン氏がラーメンを作る傍らいつもLINEに参加しやすい雰囲気を作り出してくれてるおかげで)、なんと、5割近い出席率になりそうだった。
同窓会で出席率5割って、結構すごいこと。で、焦ったのは私たちである。だって普通は同窓会なんて出席率3〜4割くらいのもんでしょ。そういう想定で動いてるわけよ。つまり、最初に設定した会場、完全にキャパオーバーである。
また、想定外に規模が大きくなりすぎたため、私とM子とA子の3人で仕切るのは無理と判断。T氏とジャイアンとラーメン氏に幹事の協力をお願いしたところ、快諾いただき(ジャイアンは少しめんどくさそうな反応だったが、なんだかんだいって仕切りは好きなのであろう…)同窓会1ヶ月ほど前にして新体制で仕切り直しというカオス。
個人的なことだが、実は時を同じくして、会社を辞めることになったり、国立小の一次抽選があったり、七五三予約会やら、イベント出展やら、色々ありすぎてほんと訳わからなかったよ。
というところで、また続く。

2015の色々その3、同窓会やったことの1

私の2015を語る上で欠かせないであろう事件、それが中学の同窓会である。同窓会に行った話じゃなくて、同窓会を企画主催したという話。
中学時代から続いている友人4人以外とは全く交流がない、たとえば街で偶然会ってもたぶん声なんかかけない、向こうから声かけてきたらなんか喋るけど、連絡先聞いたりは絶対しない、と思う閉じている私である。てか実家も引っ越した今、そうそう偶然出会うこともないし。そんな境遇の私が、なぜ同窓会幹事なんかやることになったのか。
同窓会やりたいよね〜という話は、私たちの間では以前からあった。でも、「誰かやってくれないかなー」という気持ちでいた。同じ中学から同じ高校に進んだ男子のT氏は毎年学級委員をやっていたような子で、高校の同窓会で定期的(つっても5年に1度だよ)に会うので、そのたびに「中学の同窓会やってよ〜」と声をかけていたのだが、いっこうに立ち上がらねえ、という状態だった。
で、今年の4月。数少ない中学時代の友人M子とA子が我が家に集まった。
例によって同窓会やりたいよねーという話になり、T氏にやってほしいって頼んでるんだけどねーと言うと、「T氏よりあんたがやるほうが人が来るよ。私たちも一緒に幹事やるから!」と、まあ丸め込まれる形で、なんかいつの間にか幹事をやることになっていたのであった。
そこから11月の開催まで7ヶ月。一見、準備期間はたっぷりあるように見えるが、二人の子供を育てながら二足の草鞋の仕事をしてて、そのうち一足の草鞋がゴタゴタしていて、しかも子供の小学校受験を考えたりとかしている私にとって、時間はほとんど無いも同然だった。私もM子もA子も千葉をでているというところがまたネックで、会場の下見ひとつもスケジュール合わせてみんなで千葉まで行って…とやるので、本当に大変だ。
つーかね。私は故郷としては千葉を愛しているけど、千葉で一生暮らすとか全く想像も出来なかったのですが。幹事特権であとからわかったことだけど、同級生の半分は千葉市内に根を張って暮らしてたし、その残りのうちさらに半分も千葉県内に在住だったのよ。残った4分の1を、都内と関東近県、そして関東以外で三等分する感じ。幹事をやっていた私たち、アウェーすぎた。
本当、近場の人が仕切ってくれたら良かったのにと思うけど、それだとたぶん私が行方不明扱いで呼ばれなかった可能性も高く、結局、地元にいない人間のほうが実は同窓会をやりたいという気持ちが強くなるものなのかもしれぬ。
そんなんで、やっとこ日時と会場を決めたのは、幹事発足から4ヶ月も経った8月だった。
さて、日時と会場が決まったら、今度は同級生をそこに呼ぶわけであるが、現在の連絡先などまるでわからないので、とりあえず卒業アルバムの住所(どうでもよい情報だが、まだ千葉が政令指定都市になる前だった)に、往復はがきで同窓会の案内を送るという古典的な手段を試みることにした。
すごく長くなりそうなんで、続く。

2015の色々その2、子どもたちのこと

夏前にいろいろ悩んでいたけれど、Pは普通に学区の小学校へ、QはPが通っている幼稚園へ、それぞれ入ることになりました。一校だけ受けると言っていた某国立大学附属小学校は一次抽選で見事にハズレで(周囲で受けた子たちもみんなハズレだった…)、それはそれで別に「神様がこっちに導いてるんだな」と思える程度の楽観主義。行き先が決まらないからモヤモヤしていたわけで、決まったらもうすっきりぽんよ。
で、Pが5歳、Qはまだ2歳だけで3歳のお祝いで、七五三も済ませました。まあそれもあれやこれやドタバタする中で準備勧めるの本当大変だったけど(ちょうど会社辞めた騒動の直後だったもので)。しかしまあ、こういったライフイベントをこなすというのは変な言い方だけどゲーム感覚でたのしいな。
Pは年長さんらしくしっかりしてきたなと思う反面、難しい感じにもなってきた。彼の中で善悪の判断が揺らぐときがあるというか、担任の先生いわく「Pくんはとても賢い子だし、今までも言うことを聞けるとてもいい子だったので、ここへ来て我を出したい気持ちとのバランスがとれなくなっているのではないか」という状態。別に今までだってそんなに「言うことを聞けるいい子」だったとは思わないけれど、割と空気を読みすぎて自分の言いたいことを言えない子ではあったと思うので、このままでは小学校以降、人間関係に苦労しそうだなと心配している。だから、ここでぜひとも殻をやぶってほしいなと思うんだけど、私としてはちょっと手を焼いている。難しいー。
そしてQはちょっとおバカで困っている。ちゃんと成長しているのはわかっているんだけど、兄妹を比べるのは良くないんだけど、Pの時はトイレを覚えるとか、ひらがなを読むとか、スプーンを上手に使う、みたいな幼稚園前に覚えておいてほしいことはほとんど自分で勝手に覚えてくれたので、どう教えたらいいのかわからない。ひらがなはともかく、入園まであと4ヶ月をきってまだ全然おむつが外れそうにない、未だ手づかみ食べをしている娘をどうしたら良いものか(と言いながら、でも子供は勝手に習得するものと思っているので焦っているわけでもなかったり…)。
まあPにせよQにせよ、人生のステージがひとつ上がるときというのは、何かと大変なものなのだろう。それが重なってしまったので、母親としてもしばらく大変な時期が続くのかなーとぼんやり考えている。