ベロニカ学習帳。

文京なんちゃらのなれの果て

乳と卵/川上未映子

実家にあった文春*1で読んだ。ほか一切読んでないくらい時間はなかったが、すんなり読めたのでかろうじてこの作品は読了。
すごく分かりやすかった。予想ほど新しいかんじはなく、むしろ文学的にはスタンダードな感じ。文体も、むずかしいのよみにくいのと多方面から聞いていたけど、私の肌には合うリズムなのか、一行目からすっと馴染んで引っかかるとこはなかった。それでいて、読み応えはあり。良作だと思う。
しかしまあなんちゅうか、血なまぐさいんですわ。経血のしたたるような物語ちゅうかね。それがこの作品のテーマであり魅力でもあるのだから仕方ないけども、これは必ずしも女なら理解できるってわけでもない。
ここで自分語りなんスけど、私は初潮を迎えた(って向こうから勝手に来た)のが人より少し早く、知識や情報が入ってくるより先に血が出てしまったため、しらんうちに自分が背負わされていた女性性についてひどく不条理に感じたもんだ。今でも私はね、男性に相対する存在としての女性であることは意味がわかるし楽しめるけど、生物として雌であるという絶対的な状態は実のとこ気にくわんのよ。そういう意味で緑子の日記には大変共鳴。もう32歳なのに思春期のトンガリ全開かよっていう。
それと、読後に感じたもの悲しさ。これはたぶん、夏子へのシンパシーだ。この物語で語り手役に徹する彼女は、あまり自分についての情報を披露しない。けれど本当はこの人がいわば主人公で、だのにこの人だけがなんも解決を得ず、むしろ引掻き回されることで気付かぬ振りをし続けてきた自分の問題に直面してしまったところで物語が終わる。私もいち読者として、問題をつきつけられたとこで終わってしまって、困っているのかもしらん。
これらを総合すると、たぶん巻子こそ哀れに見えつつ作中で一番しあわせな人、というと語弊があるか。ならば、女性性を一番真っ向から受け止めて生きられる人。て感じならいいかね。まあ実生活でも、人を振り回す人ほど幸せだからね。そこに哲学的な意味があろうがなかろうが。
関係ないけどクライマックスの卵のシーンで、私が読みながら脳内に思い描いた映像の片隅には、「撮影に使用した卵はスタッフが美味しくいただきました」というテロップが勝手に入った。たぶん、食べ物を無駄にすることに対する反発の現れ。ってことにしとこ。決してテレビ脳てことではない……よね。