ベロニカ学習帳。

文京なんちゃらのなれの果て

天使の屍 (角川文庫)/貫井徳郎

あーーーあーーーー救われねえ。というのが読後感。やるせないなあもう。
自殺なんてしそうにない利発な中学二年の息子・優馬が突然自殺し、息子の自殺に納得できない父親(=主人公)がその動機を探り始める。事件を探るうちに、息子と仲が良かった同級生が次々と自殺し、事態はますます謎だらけ。非常に緻密な物語構成の中で、謎がさらなる謎を呼び、ぐいぐい物語に引き込まれました。が。
父親がたどり着いた現実は容赦なかった。端折って言えば、「あんましモテないマジメくんな男子中学生たちが、女とヤれると唆されて簡単についていき、甘い誘惑でついLSDもやってしまい、ラリって乱交パーティしてるところを撮影され、それを裏ビデオとして売られていることを知り、さらにそれを材料に恐喝までされた」というのである。それはとても衝撃的で、これが現代の中学生の実態なのかー!(といってももう10年ほどまえの作品である)と言いたくなるが、これだけでは事件は成立しない。
上記のことはそもそもの発端が、仲間と思われていた同級生の一人・永井による「LSDで成績上位者を陥れて自分がトップになるぜ大作戦」だった。少年達は「どうせLSDやって乱交していた様子が裏ビデオになってしまった自分たちには将来がない」し、それこそ「死ぬほど」永井に恨みを持っているので、自分たちが次々と自殺して、その間に永井を殺せば他殺に見えないんじゃね? と計画を立てる。これが連続自殺事件の真相。浅はかな、だけどこれは確かに中学生の実態だ、と思う。
たかがクラスで成績トップになるためにLSDで人を蹴落とすという発想は大胆にして幼稚だけれど、中学生にとって成績ってのは社会人にとっての役職や給料みたいなもので、気にする人にとっては一大事だったりするんだろう(俺にはワガンネ)。自分出演の裏ビデオなんて思春期には死ぬほど恥ずかしいかもしれないけれど、過去の出来事も自身の多感さも時と共に風化することが解るほど長く生きてるわけじゃない。大人たちが「そんなことで」と思うような原因で、死ぬほど悩むのが十四歳なのだ。殺したり死んだりすることで悩みが解決するわけじゃないってことは、大人が教えてあげなきゃいけない。
作者は物語の冒頭に、郵便受けに放り込まれたピンクチラシを多感な年頃の息子に絶対見せてはいけないと、主人公の妻(自殺した優馬の母)が主張するシーンを描いている。あえて冒頭でこれを書いたのは、こういう教育方針が諸悪の根元だというメッセージを込めているのではないか……というのは深読みなのかな。まあいいや。