ベロニカ学習帳。

文京なんちゃらのなれの果て

先日ちょっと書いてすぐ消してしまった件について、一応カタがついたと思ったので、書いておきます。単なる備忘録だし、結構いやな話なので、軽く折りたたんでおきますけど。
10日ほど前、とあるブログで私の文章(創作サイトのほうの)が盗用されていると連絡を受けました。調べると、盗用された文章はかなり多数で、さらに言えば私以外にも多くのサイトが被害に遭っていることが解りました。盗用というより、とにかくコピペなんですが、これがもう掘り返せば掘り返すほど被害がざくざく出てきて、結局解っただけでも被害者サイトは30以上、盗用作品数は数百にものぼる大事件でした。
これだけ被害者がいると反応も様々。社会的制裁を加えたいというほどご立腹の方、本人に特攻した方、別にどうでも良いという方、ショックのあまり塞ぎ込んでしまう方、などなど、さもありなんという感じではありますが。私に盗用の事実を伝えてくださった方は、中心人物として盗用に関する情報をとりまとめてくださっていましたが、その際の精神的肉体的疲労でとうとう病床に臥してしまったほどでした。
なるべく静かに穏便にという名の下、水面下でずいぶんといろいろゴタゴタやっていたわけですが、最終的には当人から謝罪のメールを直接いただいたことで、一応私の中でこの問題は終焉を迎えてます。
やー、終わった終わった。
この件で関わった人たちから、さぞお怒りでしょう、みたいな声を幾つもいただいたんですが、私は初めから怒りというのは特に感じなくて、ただ、うわーキモいなーメンドイなー、というような気持ちでいっぱいになりました。これも負の感情であることは確かだけど、ホントのところ、もしあの盗用を自分で見つけていたら間違いなくスルーしていたと思います。ただ、私に盗用の事実が知らされた時点でそれが結構大規模な問題だとわかっていたことや、被害の多さから考えて、このままスルーしたら自分がリンクしているサイトさんにまで被害が及びそうな気がして。いろいろ考えた結果、本人と接触せざるを得なくなったわけですが。まあそこらへんは、今となってはもうどうでもいいことです。
ともかく今回のことは自分にとって、今までに書いてきたモノの意味をすごく考えさせられる出来事となりました。
私が日ごろ公開している詩とも日記ともつかない言葉は、人にウケたいと思って書いたわけでもなく、身を切るような想いで綴った生々しい言葉でもなく、ある意味すべて虚構なので、それを盗用されることで自分が傷つくようなことはなにもないという、意外なほどの淡白さを自分の中に見つけました。
それと同時に、だからといって自分の文章に思い入れや愛着が無いわけでもないことにも気づかされました。普段は絶対に自分の文章を読み返さない私でも、他のたくさんの人の書いたものと並べられていたら、自分の文章って解るものなんだなあ、と。
今まで私は、一応小説のページだけには申し訳程度に著作権表示を掲載し、あと自分以外の人が一緒に制作に関わっている楽曲なんかは注意して扱ってきたつもりだったのですが、さほど自分の著作権に執着する考えがなかったのも事実でした。無防備であったことは否めません。そう考えると、今回の盗用はある意味当然の成り行きだったのかもしれません(犯人は、ばっちり著作権について注意書きのあるサイトからもコピペしてますが……)。
正直、自分の文章として掲載されてなくても、自分の文章に対して知らない誰かが付けてくれたコメントは嬉しかったりしちゃったのです。著作権を放棄する積もりは全然ないけれど、自分の言葉がそうやって広まっていくこと自体はなんだか悪い気もしなくて、なんかこう、そこんとこ上手いバランスでやれないもんかなあ、などと思った今日この頃です。今回いろいろ調べているうちに知ったのですが、今は『言葉のフリー素材』サイトなんてものもあるそうで。そういうのをやってみるのも面白そうだなあと思いました(やりません)。
なんにせよ年内に解決してすっきりしました。おわり。